「損ばかりの人生」にとどまる私たち。どうして変わることを選択できないのか
真面目に、良い事ばかりしてきたはずなのになぜか評価されない。
割に合わないことばかり、損ばかりの人生と言うのもあるものです。
私自身、公明正大に、出来るだけ清く正しく生きてきたつもり。
一生懸命勉強もして、仕事もしてきました。
それなのに・・
離婚してシングルマザーになり、失業まで経験してしまいました。
このように、たぶん多くの人が知っている通り、ただ真面目に生きて良い子でいても、幸せは保証されないのです。
それでもなぜ「真面目さ」「良い人でいること」にこだわってしまうのでしょうか?
損するだけだと分かっているのなら、さっさと良い人を止めてしまえばいいのに。
損するだけだと分かっていても・・真面目を止めるのが怖い「真面目洗脳」
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日本人は、真面目でルールをよく守る民族だと言われています。
確かに学校や家庭では小さい頃から
コツコツ努力すること
親や先生の言うことをよく聞くこと
嘘をつかないこと
嫌なことでも我慢してすること
これらのことが良い事だと評価され、実践すれば褒められたり成績が良くなったり良いことがあります。
こんな経験から
「真面目、良い子、自己犠牲」=「良い事」=「幸せになれる」
という常識が刷り込まれてしまっているのですね。
ところが社会に出ると、この常識が当てはまらない出来事が多くなります。
周りを見ても分かるように、口ばかりでずるい人ほど出世していたりするのに、
反対に真面目で良い人ほど、面倒なことを押し付けられて痛い目にあっているように見えます。
神様だって同じで、真面目に生きていても幸福を運んできてはくれません。
「毎日頑張ってるから、宝くじ一等プレゼント」
なんてことが絶対に起きないことを、私たちは知っています。
でもこれほどまでに「良い子でいても幸せになれない」と分かっているのに、まだ真面目で良い人を止められません。
子どものころから刷り込まれた常識は、洗脳にも近いほど人の行動を縛ってしまうのです。
どうしても止められない?ならいっそ貫いてみる
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認知科学者の苫米地英人さんは、こうした「真面目洗脳」から脱却するために「あえてルールを破る」ことを勧めています。
だけどルールを破ってみても、なんだか落ち着かなくてそわそわして、罪悪感も感じて・・
「結局私は変われない」
という結論に至ってしまいます。
それならば。
いっそ、「真面目で良い子」を貫いてみたら良いと思うのです。
もちろんそれは、その見返りとしての「良い事」を一切放棄して「自分の生き方として」です。
不真面目で世渡り上手な人を見ても腹を立てない。
どんなに不遇でも関係ない。
損も得も度外視で「私は真面目をする!」と決めてみれば良いのです。
すると不思議なことに、見返りを求めているうちは止められなかった
「良い子ちゃん」
「自己犠牲」
を、とんでもなくバカバカしく感じるようになってきます。
多分、見返りへの執着がなくなるからです。
「損を取り戻したい!」と思っている内は止められないパチンコも、「お店に寄付してる」と思うと止めたくなるのと同じかもしれません。
とにかく「真面目でなくてはいけない」という心の縛りから、楽になることが出来るのです。
それでもなお、真面目でいたいなら・・それはあなたの「人間としてのプライド」
「真面目であることを受け入れてみて、その執着心を取り除いてみよう」
というのがこのお話しの趣旨でした。
それでもなお、もしかしたら私たちは今までの損する生き方を止められないかもしれません。
だとすれば、それはきっと私たちの「人間としてのプライド」がそうさせているのです。
それは、どんなに損しても良いことがなくても、譲れないことがあるということ。
それは決して「損だらけの人生」ではなく、「潔い生き方」と言えるのではないでしょうか。
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