「苦しみから逃れたい」と思う心や努力が、ますます苦しい現実を創り出していた
辛いこと、嫌なことがあると感じる「心の痛み・苦しみ」。
私はこの心の苦しみに遭うの嫌で、どうにかして辛いこと・嫌なことから逃れようと努力し続けていました。
でもその強すぎる願いや努力が、人生をますます苦しいものにしていったんだということには、なかなか気づくことが出来ませんでした。
苦しみを逃れるために、監視の目を緩められない
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誰かに言われたことで傷ついて、それを忘れられなくなったり
辛かった出来事を何度も思い出してしまう
という経験は誰でもあるかと思います。
私にとっては、そんな経験の中で最も心に与えたダメージが大きかったものは、離婚にまつわるものでした。
離婚に関わって「苦しい・辛い・悲しい」と感じた出来事は山のようにあり、
「もう二度と苦しい思いは嫌だ」
という気持ちが心に強く強く芽生えました。
それ以降は、どんな些細な心を乱す出来事にも耐えられず、
何も問題が起きないように
困ったことが起きないように
不安なことが無いように
失敗しないように
とても神経過敏になりました。
心を守るために先回りして色々なことを考え、人生を監視し、疲れ果てました。
確かにそのおかげで、回避できた問題や失敗はたくさんあったと思います。
でも皮肉なことに、「困ったこと・問題・失敗・・」を避けるためにそれらを予期するから、何も問題は起こらなくても妄想の中で常に心は苦しんでいました。
苦しみを避けるための努力が、妄想の苦しみを生んでいる。
そんなバカバカしい状況。
しかしそれに気付かずに、妄想の苦しみを消すためには、また努力と監視を続けないといけなかったのです。
自分に絶望して人生が好転したのは、監視と努力をやめられたから
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当たり前ですが、
「現実を監視して起こりそうな問題を探し、その問題が起こらないようにする」
という努力をし続けても、心の平安がもたらされることはありません。
問題発見機と化した自分は、新しい問題(と思われるもの)を見つけ出しては苦しみを妄想するからです。
この不毛な取り組み。
問題が起こらないように、失敗しないように、困らないように
監視をしても
努力をしても
無駄
困ったことが起きていないはずなのに、気分は良くならない
私がこの無意味な戦いを止めることが出来たのは、ただ単にそんな自分に絶望したからでした。
その後の自分には、相変わらず困ることや悲しいこと、失敗もあります。
むしろ細かいものは、監視に力を注いでいたころよりもあるかもしれません。
でもそれで心が乱されることもあれば、そうでないこともあることが分かりました。
そして心が乱されても、案外忘れられることも。
また忘れられなくても、別に問題は無いということも。
いま考えれば、離婚のときの苦しみも時間と共に和らいでいたのです。
だから私は、苦しみを消そうともがくのではなく、ただそれに気付けばいいだけだったのでした。
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